出生:1963年3月1日
―幼少期から現在迄の経過概略―
関連の写真・65年頃に撮影(本人提供) |
1965年(昭和40年)頃?…正確な年月日は確認不能~「診療録、現存せず」
母(1936年出生)の話から――
「家で泣いてる中でテレビジョンが映っている所に広告が流れ出すと、途端に泣き止んでテレビの方に見入る様子を見て、是は他の子と違う、と思い小児科医に話した所、「脳波を見て貰った方が良いが、其は3歳に成ってからで無いと出来ない。3歳に成る迄待とう」旨を言われた。其で3歳に成った年(66年)に、とある大病院(以下、Z病院)へ連れて行く。が、脳波を録ろうと麻酔を打つも眠らず断念。「脳内に細かい傷が在るものと見られる」旨の話を医師から聞く」
67年4月
幼稚園(普通・年少組)入園。
69年4月
小学校(普通学級)入学。母の話・抄「入学前の知能検査で指数120」
▲此の頃から第三学年の頃迄週一回(主に土曜日)、
母と共にZ病院へ通い院内の「おはなルーム」で遊ばされた記憶在り。
75年4月
中学校(普通学級)入学。
78年4月
高等学校(私立男子校・普通科)入学。卒業迄の三年間、苛められる事略毎日―籠 球の球を後ろからぶつけられたり、拳闘の真似事をさせられたり、或いは2階から投げ落とされる寸前迄身体を外へ運ばれたり…等々―。卒業試験後は欠席続きの儘、卒業式にも出席せず(父が代理で証書受取)して卒業日を迎える(父(1930-2011)は春男の出生時から靴の卸売を行っていたが、79年に破産)。
81年4月
とある街の「高等職業訓練校」の「製版印刷科」に入校。「写真植字」の課程を望むも、課程分けの適性試験・「文字探し」らしき問題で指定時間内に半分程度の量しか答えられず、為に写真製版課程に。修了に際して二件の求人に応募、面接に臨むも共に失格。
82年3月
修了式から間もなく、父の知人の紹介で、とある街の印刷会社に写真製版見習いとして就職。以降、後述の同社「閉鎖」迄の約24年間、作業の課程で癇癪を起こす事が屡々(←主に、工程が完成していない状態で指定時刻が迫る場合や不測の事態に直面した場合)。
88年10月
母の勧めで、其の知人が信徒と成っている基督教会へ通い始める(当初は週一回、後述の「雇用保険手当支給終了」後は年に数回程度。結局、「洗礼」を受けてるには至らず)。翌年以降、同教会の幾つかの行事への参加を通して、脳障害児に係る社会福祉活動を行う自発的組織(後に社会福祉法人「V」と成る)の人々と出会う。
2000年(平成12年)
此の頃から、勤務先に於いて、雨漏りや天井の部分崩落が目立つ様に成り、仕事の受注量の減少も目立ち始める。3年後からは時間外勤務手当が支給不能に。
05年2月
社会福祉法人Vの精神科医を尋ね、知能検査を経て紹介状を得る。脳内精密検査をZ病院に於いて行うべく(保険適用外である上に受診機会を得られず結局、断念)。
06年7月31日
勤務先の印刷会社が「破産申請」を理由に職場閉鎖。
06年8月中旬
雇用保険手当の支給開始。週2乃至3回、職業安定所(以下、職安)へ通い、一般求人枠で就職探し。
07年5月
自らにとっての適職を見出せない儘、雇用保険手当の支給終了。連休開け早々、職安にて前述Vの紹介状を持参の上で職業相談に臨み、「高機能自閉症」と診断された旨を話した所、同じ街の「自閉症者自立支援センター」を紹介され、日を改めて同所を訪ね、其の席で とある独立行政法人の「障害者職業センター」(以下、障職セ)を紹介される。
07年7月
説明会を経て障職セでの「作業訓練」に「体験参加」(5日間)。「5日間では判らない事が多々在る」との事で、正規の作業訓練(8週間枠)への参加を勧められる。
07年8月
上旬、V役員から「有償奉仕」(1000円/日)を勧められ、許諾(10月開始)。下旬から障職セでの正規の作業訓練に参加(10月中旬迄)、特に「ボールペンの組立及び分解」の作業で「遅い動作」の傾向が顕著に出る(組立での自己最高は300本/時)。
07年10月中旬
前述・作業訓練の結果、以下の方針を確認。
△時間的な拘束が少なく、
与えられた課題にじっくり取り組んで其を成し遂げる仕事への就職を目指す。
△面接の際には、障職セの相談員が同行する。
「製造・加工・修理」「清掃」及び「比較的軽度の労務」
の何れかに該当するX市内の事業所を対象に就職活動を再開。
08年9月
障職セが職業安定所を通して「運送会社Uが内勤として2人を障害者枠で採用の方針」旨を伝え、応募。11月、軽量荷物仕分担当の形で約3週間の実習(無賃)に臨む後、「短時間パート従業員」(4~5時間・週5日・最低賃金適用)として契約、12月後半から「伝票読取」担当として就労(もう一人の障害者(女・40代後半・精神障害)は約3箇月で退職)。此の間、Vに於いても「短時間パート従業員」扱い(2~4時間・週3~4日・最低賃金適用)と成り、Uを主勤務先・Vを副勤務先として今に至る。
【「春男」が抱えている事・特性等】
●作業の手順・要領は一乃至二回、教わると理解出来るが、他者と比べると、頭の回転・手の動きが遅い(パソコン(含むソフト)は使えるが、釦を叩く事に時間が掛かる(概ね、平均的他者の半分程度の速さ):例)。
●特定の物事に拘る傾向が在る。作業の際、一つの固定したパターンに沿って行わないと安心出来ず、場合に拠っては癇癪を起こす事も在る。
●与えられた課題と直に関係しない音(特にテレビ放送)が流れていると気を取られ易い。
●以下の状態に一つでも直面すると、癇癪を起こし易い(表に出る事を抑えるのが大変)。
△与えられた課題が成就しない内に制限時間が迫った場合。
△一つの課題に取り組んでいる最中に、其と関係無い他の事々が入って来た場合。
△其の他、不測の事態に直面した場合。
●他人から何か聞かれた時、其の場で且つ論理的な形で応答するのに難が在る(会話自体は出来るが、文言を論理的な形に組み立てる迄に時間が掛かる)。
●一人で過ごす事が楽、集団で過ごす事(含む泊まり込み)には苦。
■[自分に腹が立つ。誰が悪いのでもない。健常者と同じ様に出来ない自分に腹が立つ]――今正に行っている事が巧く行かない場合に出る独り言の一例
◆
春男の母は、春男を初めてZ病院へ受信させてから4年程の間、診察に当たった精神科医の勧めで当地の「自閉症児親の会」(任意団体)に参加していた。が、「同じ自閉症でも各々、障害の中身が違う子を抱える親同士が互いに傷を舐め合う格好で事が前へ進むのか」等と疑問を強く覚える様に成り、春男が小学二年生に成った事を機に「自閉…会」を脱退。以降、始めの2年間は同じZ病院へ通い続けるも、夫婦で独自に―日曜日と成ると自家用車を走らせ家族で日帰り旅行を行う等して―春男を育てていった。
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「勤務の実状」更新準備難航中(公開日時未定)
お 断 り
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扉・序説 主人公・勤務の実状(副勤務編) 「障害年金」其の、壱現実
春男が語る。―最近の世間の出来事から― 遅・障・園 ぷらす お知らせとお願い(電子メールに接続)
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